論理学入門

古典命題論理の意味論

§1.1 命題の意味

命題論理では、命題と呼ばれる文のみを扱う。命題とは、判断や主張を表わす文で、それが正しいかどうかを明確に判定できるもののことをいう。素朴には、命題が正しいとは、その命題が表現する内容と事実が一致することをいう。例えば、「日本は島国だ」という文が表わす内容は事実なので、「日本は島国だ」は正しい命題だが、「元日は1月2日だ」という命題が表わす内容は事実ではないので、「元日は1月2日だ」という文は正しい命題ではない。命題が正しいとき、その命題はであるといい、命題が正しくないとき、その命題はであるという。

命題の意味とは、命題の真偽のことである。例えば、「日本は島国だ」の意味は真で、「元日は1月2日だ」の意味は偽となる。しかし、この用法は我々が普段用いている「意味」の意味とはかなり異なる。実際、「『日本は島国だ』とはどういう意味ですか」と尋ねたときに「その意味は真です」という返答がきたら驚くだろう。しかし、ひとまず命題論理における「意味」の定義はそうなっている、ということで了解してほしい。このような定義が、ある程度有効かつ便利であるということは、命題論理を学ぶ内に分かるようになるだろう。

二つの命題の意味が常に一致するとき、それらの命題は同じ意味であるという。例えば、「私は猫が好きだ」と「私は猫が好きではない、ということはない」は同じ意味になる。なぜなら、
  1. もしも「私は猫が好きだ」が真なら「私は猫が好きではない」は偽になるので、「私は猫が好きではない、ということはない」は真になり、
  2. もしも「私は猫が好きだ」が偽なら「私は猫が好きではない」は真になるので、「私は猫が好きではない、ということはない」は偽になる
からである。つまり、「私は猫が好きだ」の意味に関係なく、「私は猫が好きだ」と「私は猫が好きではない、ということはない」の意味は一致している。両者のニュアンスは異なるが、論理学としては、両者は同じ意味ということになる。あるいは、「私は猫が好きだし、猫も私が好きだ」と「猫は私が好きだし、私も猫が好きだ」も同じ意味になる。なぜなら、
  1. もしも「私は猫が好きだ」と「猫は私が好きだ」が共に真なら「私は猫が好きだし、猫も私が好きだ」と「猫は私が好きだし、私も猫が好きだ」は共に真になり、
  2. もしも「私は猫が好きだ」と「猫は私が好きだ」のどちらか一方が偽なら「私は猫が好きだし、猫も私が好きだ」と「猫は私が好きだし、私も猫が好きだ」は共に偽になる
からである。やはり、「私は猫が好きだ」と「猫は私が好きだ」の意味に関係なく、「私は猫が好きだし、猫も私が好きだ」と「猫は私が好きだし、私も猫が好きだ」の意味は一致している。

§1.2 「または」と「ならば」

日常用語における「または」には曖昧さがある。例えば、レストランで「パンまたはライスが選べます」(「パンかライスが選べます」)と言われたとき、普通は「パンとライスのどちらか一方が選べる」と解釈するのであって、パンもライスも選ぶ人はいないだろう。しかし、「私のとなりにいる人は医者または弁護士だ」(「私のとなりにいる人は医者か弁護士だ」)と言うとき、その人が医者であり、しかも弁護士でもある可能性を普通は排除しない。このように、「AまたはB」と言うとき、それが「AとBのどちらか一方」ということなのか、それとも「AとBの少なくともどちらか一方」ということなのかは文脈によって変わる。前者は排他的選言、後者は両立的選言と呼ばれている。

日常用語における「ならば」にも曖昧な点がある。例えば、「やる気がないなら帰ってください」と言われたとき、私にやる気がないのに帰らない場合には、この命令に従っていないということになる。しかし、私にやる気がある場合も命令違反になるのだろうか。言い換えれば、「私にはやる気がない」が偽のとき、「私にやる気がないなら私は帰る」も偽になるのだろうか。古典論理では、その場合には「私は帰る」の意味に関係なく「私にやる気がないなら私は帰る」は真であると考える。なぜなら、「やる気がないなら帰ってください」という命令は、「私にはやる気がない」という条件を満たす場合に私がどうすべきかを指定しているだけであって、そもそも私にやる気があるときの私の行動は指定していない。よって、そもそも私にやる気がある時点で、この命令に違反していることにはならない。このような、古典論理における「ならば」のことを実質含意という。

実質含意には、他に注意すべき点が二点ほどある。いずれも、実質含意の不備に関連するが、その改善の試みは、古典論理の範囲を逸脱するので、ここでは扱わない。

第一に、実質含意は、日常用語としての「ならば」の特徴を正確に反映していない。例えば、「2に3を足せば5になるなら隅田川は川だ」は古典論理において真になる。しかし、感覚的には、2に3を足せば5になることと隅田川は川であることは無関係なので、前者から後者が帰結するという主張は奇妙に感じられるのではないだろうか。このように、実質含意は、関連のない二つの命題を結びつけるときには奇妙な振る舞いをしてしまう。

第二に、実質含意は、事実ではないことを条件として仮定しない。例えば、「私に翼があったなら自由に空を飛べた」という文は、「私に翼があった」という事実ではないことを条件として仮定している。このような「ならば」の使い方のことを反事実的条件法という。反事実的条件法を分析するときには、「様相」と呼ばれる概念が関わってくるので、古典論理よりも複雑な論理が必要になる。

§1.3 命題の記号化

ここまでは、記号を用いずに話を進めてきた。しかし、数学を全て日本語で記述することが大変なように、論理学も日本語だけで記述しようとするのは無理がある。そこで、数学において円周率のことをπと記号化したり、「等しい」ということを=と記号化したように、論理学においても命題や接続詞を記号化しよう。

まず、原子命題と呼ばれる命題をA,B,C,D,E,…と記号化する。原子命題とは、それ以上分析することのできない命題のことである。例えば、「私は猫が好きだし、犬も好きだ」は、「『私は猫が好きだ』かつ『私は犬が好きだ』」と分析されるので、原子命題ではない。しかし、「私は猫が好きだ」あるいは「私は犬が好きだ」は原子命題になっている。なぜなら、命題論理では、「私」と「猫が好きだ」や「犬が好きだ」の間にある関係性を表現することができないので、「私は猫が好きだ」や「私は犬が好きだ」をこれ以上分析することはできないからである。厳密に言えば、記号化された後の原子命題はあくまでも単なる記号であって命題ではないが、毎度「原子命題の記号」と呼ぶのは面倒なので、以下では原子命題の記号のことも「原子命題」と呼ぶことにする。また、命題の記号のことも「命題」と呼ぶことにする。

次に、「〜ではない」(否定)、「かつ」(連言)、「または」(両立的選言)、「ならば」(実質含意)をそれぞれ¬, ∧, ∨, →と記号化する。これら四つの記号のことを論理結合子という。例えば、Aを「私は猫が好きだ」、Bを「私は犬が好きだ」とすると、「私は猫が好きではない」は¬A, 「私は猫が好きだし、犬も好きだ」はA∧B, 「私は猫または犬が好きだ」はA∨B, 「私は猫が好きなら犬も好きだ」はA→Bとなる。

Aを「Kさんは大学生である」、Bを「Lさんは大学生である」としたとき、「KさんとLさんの少なくとも一方は大学生ではない」は「〜ではない」という否定がAとBのそれぞれに掛かっているので、(¬A)∨(¬B)と記号化し、「KさんとLさんの少なくとも一方が大学生というわけではない」は「〜ではない」という否定がA∨Bの全体に掛かっているので、括弧を用いて¬(A∨B)と記号化する。つまり、括弧によって、その中身を先に処理するという指示を表わすことにする。

実は、数学にも似たような記法がある。例えば、「5を2と3を足した結果に掛ける」を記号化すると5×(2+3)となるが、やはり括弧の中身2+3が掛け算よりも先に処理されている。しかし、「5と2を掛けた結果に3を足す」を記号化するとき、普通は5×2+3と書き、(5×2)+3とは書かない。なぜなら、足し算よりも掛け算の方を先に処理するという規則があるからである。同様の規則は論理学にもある。論理学では、¬を∧や∨よりも先に処理し、∧や∨を→よりも先に処理する。例えば、¬A∧Bは(¬A)∧Bと同じことを表し、A→B∨CはA→(B∨C)と同じことを表している。まとめると、論理結合子の優先順位を高い順に並べれば次のようになる。

よって、¬は→よりも優先される。例えば、¬A→Bは(¬A)→Bと同じことを表している。

このとき、優先順位が同じなら括弧を省略することはできない。例えば、(A∧B)∨Cの括弧を省略することはできない。なぜなら、A∧B∨Cとしてしまうと、それが(A∧B)∨CとA∧(B∨C)のどちらを表わすのかが不明確になってしまうからである。ただし、¬の場合は省略してもよい。例えば、¬¬Aは¬(¬A)以外を表しえないので、¬(¬A)の括弧を省略して¬¬Aと書いてもよい。

§1.4 真理値表

命題のみならず、命題の意味も記号化できる。すなわち、命題が真であるということを"True"の頭文字をとってTと記号化し、命題が偽であるということを"False"の頭文字をとってFと記号化する。この二つの記号のことを命題の真理値という。また、命題の真理値と、その命題を構成する原子命題の真理値の間にある関係を表現した表のことをその命題の真理値表という。

¬A, A∧B, A∨B, A→Bの真理値表は、それぞれ下の表1.1から表1.4のようになる。ただし、ここで「または」は両立的選言として用いられているということに注意せよ。

もう少し複雑な例もみてみよう。例えば、「私は猫が好きなら犬は好きではない、というわけではない」は¬(A→¬B)と記号化される。この命題の真理値表を直ちに書くのが難しい場合は、補助的に¬BやA→¬Bの真理値表も組み合わせて、下の表1.5のように書いてもよい。

§1.1で述べたように、二つの命題の意味が同じであるとは、それらの意味が常に一致するということだった。二つの命題の意味が同じかどうかは、それらの命題の真理値表を比較することで判定できる。例えば、¬A∧¬Bと¬(A∨B)の真理値表を一つにまとめると、下の表1.6のようになる。

この表によれば、
  1. もしもAとBのどちらか一方が真なら¬A∧¬Bと¬(A∨B)は共に偽になり、
  2. もしもAとBが共に偽なら¬A∧¬Bと¬(A∨B)は共に真になる
  3. ので、AとBの意味に関係なく、¬A∧¬Bと¬(A∨B)の意味は一致している。よって、¬A∧¬Bと¬(A∨B)は同じ意味である。

また、真理値表を比較すれば、任意の命題A_1, A_2, A_3に対して、

  1. (A_1∧A_2)∧A_3とA_1∧(A_2∧A_3)は同じ意味になり、
  2. (A_1∨A_2)∨A_3とA_1∨(A_2∨A_3)も同じ意味になる
ことも分かる。この(a)と(b)のことを結合法則という。結合法則によれば、A_1∧A_2を先に処理しても、A_2∧A_3を先に処理しても意味は変わらないので、(A_1∧A_2)∧A_3あるいはA_1∧(A_2∧A_3)を省略してA_1∧A_2∧A_3と書くことにする。同様に、(A_1∨A_2)∨A_3あるいはA_1∨(A_2∨A_3)も省略してA_1∨A_2∨A_3と書くことにする。

§1.5 命題の変形

§1.4では¬A∧¬Bと¬(A∨B)が同じ意味になるということを示した。同様に、¬A∨¬Bと¬(A∧B)も同じ意味になるということが、下の表1.7から分かる。このように、¬A∧¬Bと¬(A∨B), ¬A∨¬Bと¬(A∧B)がそれぞれ同じ意味であるという法則のことをド・モルガンの法則という。ド・モルガンの法則は、原子命題AとBに対してのみならず、AとBを一般の命題に置き換えた場合でも成り立つ。

また、A→Bと¬A∨Bも同じ意味になるということが、下の表1.8から分かる。よって、A→Bを¬A∨Bに変形してよいし、逆に¬A∨BをA→Bに変形してもよい。つまり、実質含意→は、否定¬と両立的選言∨で表現できるということになる。

このように、同じ意味をもつ命題のパターンがいくつかあるので、それらを覚えておくことで、真理値表を描くことなく、与えられた命題を同じ意味をもつ別の命題に変形できる。例えば、ド・モルガンの法則と「任意の命題A_1に対して、¬¬A_1とA_1が同じ意味になる」という法則(二重否定則と呼ばれる)を知っていれば、真理値表を描かなくても、¬A∨Bは¬(A∧¬B)と同じ意味になるということが直ちに分かる。下に、そのパターンを列挙しておこう。ただし、A_1, A_2, A_3は任意の命題を表わす。

余裕のある読者は、これらの法則が本当に正しいのかどうかを真理値表によって検証してみるとよい。

§1.6 命題論理の論証

n個の命題A_1,…,A_nから命題A_{n+1}が導かれるという主張をA_1,…,A_nからA_{n+1}への論証といい、A_1,…,A_nのそれぞれを前提結論という。論証と「ならば」は似ているが、両者を混同してはならない。「ならば」によって接続された命題A_1→A_2のA_1の部分は前提ではなく前件、A_2の部分は結論ではなく後件と呼ばれている。

命題A_1∧…∧A_n→A_{n+1}が常に真になるとき、A_1,…,A_nからA_{n+1}への論証は妥当であるという。一般に、命題が常に真になるとき、その命題は恒真であるという。以下では、A_1,…,A_nからA_{n+1}を導く論証が妥当であるということをA_1,…,A_n ⊨ A_{n+1}と表わし、妥当ではないということをA_1,…,A_n ⊭ A_{n+1}と表わす。

例えば、Aを「私は傘をさしていない」、Bを「雨は降っていない」とすると、「私が傘をさしていないなら雨は降っていない。しかし、雨は降っている。よって、私は傘をさしている」は、A→B,¬Bから¬Aへの論証となる。このとき、(A→B)∧¬B→¬Aの真理値表を描けば、下の表1.9のようになる。この表から、(A→B)∧¬B→¬Aは恒真になることが分かるので、A→B,¬B ⊨ ¬Aとなる。この妥当な論証は、モーダストレンス(後件否定)と呼ばれている。

あるいは、Aを「私は努力する」、Bを「私は成功する」とすると、「私は努力するなら成功する。しかし、私は努力しない。だから、私は成功しない」は、A→B,¬Aから¬Bへの論証となる。このとき、(A→B)∧¬A→¬Bの真理値表を描けば、下の表1.10のようになる。この表によれば、(A→B)∧¬A→¬Bは恒真にならないので、A→B,¬A ⊭ ¬Bとなる。この妥当ではない論証は、前件否定の誤謬と呼ばれている。

論証が妥当であることと、結論が真であることを混同しないように注意せよ。例えば、Aが真ならA→B,¬Bから¬Aへの論証の結論¬Aは偽になるが、既に示したように、この論証は妥当である。つまり、論証の妥当性とは、論証を構成する命題の内容(命題が表わす事柄)の妥当性ではなく、論証の形式の妥当性のことを指している。

§1.7 様々な論証

§1.6では、モーダスポネンスは妥当な論証だが、前件否定の誤謬は妥当な論証ではないということを確認した。他にも名前がついた論証の例は色々あるので、既に紹介したものも含めて、下にまとめておこう。

これらの全ての論証を検証するのは骨が折れるので、ここでは仮言的三段論法が妥当な論証であるということだけ検証する。余裕のある読者は、他の論証についても検証してみるとよい。

A→B,B→C ⊨ A→Cとなることを示すためには、(A→B)∧(B→C)→(A→C)が恒真になることを示せばよい。そこで、(A→B)∧(B→C)→(A→C)をXとおくと、下の表1.11から分かるように、確かにXは恒真になっている。

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